憲法:

2013年10月4日(金)

シリーズ 今、憲法が危ない!⑧改憲の足音はどこまで近づいているのか?

 ―戦前の学校と今の学校について青年部と北村小夜さんが語り合う―

もしも、憲法が改悪されて9条がなくなってしまうということは、教職員は、教え子を再び戦場に「送る」ことになります。そんなことにならないためには、どうすればよいのでしょう。戦前の「軍国主義教育」を受けながらも、戦後は1950年から85年まで小学校と中学校で教員をされた北村小夜さんと青年部が対談しました。

北村小夜さん

 これは、1938年の尋常小学校6年3組の卒業直前の授業風景の写真です。黒板右には伊勢神宮の写真、左には皇居の写真が掲げてあり、その間を先生手作りの年表が貼られていました。始まりが「神代」となっていたの。「神代」があって、その次に大和時代になって、昭和15年が紀元2600年になるように作ってありました。黒板に「わが国民性の長所短所」と書いてあって、これが国語の授業というところが面白いでしょう。戦前の教育は、「教育勅語」が基本にあって、教科はその実践編みたいなものでした。1年生の修身は、字を習う前は「掛図」で、ちゃんと字が読めるころになって、「テンノウヘイカバンザイ」というところを習うのです。1911年には音楽の国定教科書ができます。文科省唱歌は今の学習指導要領にも取り上げられていますが、「我は海の子」は1910年に、「うみ」は、国民学校発足と同じ1941年につくられていますから、言葉の持つ意味や背景をしっかりつかむことが必要だと思いますよ。そもそも「唱歌」の唱という字は、「となえる」と読むでしょう。歌うことで、言葉を覚えさせることが重要だったということなのです。今の学習指導要領でも、文部省唱歌が取り上げられるようになったけれど、教える側が歴史的な背景や意味もしっかりつかんでおかないと危ないですよ。

阿部桂佑(副部長)

 七年前の採用試験を受けた時に、何も知らないままに「われは海の子」をピアノで弾いていました。この歌に続きがあって、その歌詞に問題があるということを知った時は、ショックでした。

佐谷修(副部長)

 こうした時代背景があって、こうした歌が出来たということをきちんと説明すればいいと思うけれど、そこを削ってしまっていることが多いと思います。歴史も、日本に都合よく解釈していて、今のままでは、東アジアの国々と、共にやっていこうという方向にはならない。排外主義的な人たちがものすごく増えている中で、学校でどんなことが出来るのかと考えてしまいます。
憲法は、本来権力者を縛るためのものだったのが、自民党の改正草案では真逆のものになっています。そうなると学校でも、どんどん子どもを縛っていく方向に行ってしまうのではないかと心配ですね。

宮澤弘道(部長)

 でも、今の若い教職員は日常の仕事に手いっぱいで、憲法や世の中のことまで考えられなくなっていますね。

北村さん

 同じようなことは、教育基本法が改悪されたときにもありました。同僚に「今日、集会があるから国会へ行かない?」と言ったら、「それどころではない」と言われてしまったことがありますよ。

阿部

 今学校では、道徳と他の教科を関連させて指導するということが行われていて、戦前の教育のやり方と似ていて危うさを感じました。一方で、教員の管理や評価は厳しくなっていて、そうしたやり方に身をゆだねていく若い教員も少なくありません。
戦争をとばして歴史が語られようとしていると感じています。でも、確かにあったことなのだから、戦争についてしっかり学ばなければいけない、逆に体験している世代には、戦争を教える責任がある。でも、修身のような価値観は、その時代の子どもたちはみんな納得していたのでしょうか?

北村さん

 たぶん、従順だったのでしょう。私は、軍国主義教育を受けて軍国少女になろうと思いました。「この世で会えなかったら、靖国で会いましょう」と恋人に言うのは当たり前だと思って、その通りにしました。旧満州で敗戦を迎えたけれど、日本に引き揚げてくる時の苦労は、話すべきではないと思っています。なぜなら、そこに行ったことの罪を語る方が先だと思うからです。でも、「幼子だった私にどんな責任があるというのですか」と反論されたこともあります。私は、その人にも責任があると思うけれど、なかなか結論の出ない難しい問題です。そんな問題が山ほどあります。また、皆さんと語り合いましょう。

 

 

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