2011年3月18日~21日
被災地石巻市からの報告 阿部桂佑
ある男性は三陸海岸に面した山の中で最初の夜をすごしました。小学生の子どもと年老いた親ととともに。雪の降りしきる中、焚き火をし、夜通しその火を守りながら屋根もない山中ですごしました。
夜、「たすけてけらい」(たすけてください)と水没したあたりから声が聞こえたのだそうです。
「でも、どうにもできなかった。」とその方は話してくれました。
2011年3月11日、太平洋に面した岩手から南へ500㎞の海岸線の多くの町で、山で多くの人がそんな経験をしました。
わたしは巨大地震発生から1週間後の3月18日から21日まで生まれ育った宮城県石巻市に滞在しました。石巻市で目の当たりにしたこと、被災した方々が話してくれたことを、みなさんに伝えます。
1石巻市 大川小学校
教職員の皆さん。皆さんの中にも子ども達とともに今回の地震を経験した人が多くおられるでしょう。揺れがおさまったあとは、校庭に避難し、人数確認をし、保護者への引き渡しをしたのではないでしょうか。
石巻市立大川小学校も、私たち東京の学校と同じように子どもたちと教職員が校庭に避難していました。
大川小学校は新北上川河口から3㎞に位置します。この地域はこれまで津波を経験したことがありませんでした。円形教室があり、「モダンな校舎」として有名な大川小学校は2階建てでした。
地震発生から30分後、津波が大川小学校がある釜谷地区に押し寄せました。200戸ほどあった家屋を次々と押し流しました。2階建ての校舎をこえて校庭に押し寄せたという証言もあります。津波は街をさらったあと北上川に流れ込み新北上大橋をのみ込み、橋は半分なくなってしまいました。
教職員と子ども達は、避難のために集まっていた校庭で津波に襲われました。
大川小学校は全校児童108名のうち、84人の安否がわかっていません。当時、勤務していた教職員11名のうち、10名の安否もわかりません。(3月21日時点、石巻市発表による)
生き残った子ども達は、地震発生後すぐに引き取りがすみ、保護者と一緒に逃げることができた子たちでした
4月から大川小学校に入学する予定の幼稚園児はその多くが無事でした。でも上級生がいません。もう街そのものがありません。
2、石巻市 門脇小学校
↓門脇地区 写真中央日和山の上にあるのは石巻高校 その右下に門脇小学校 焼け焦げている
9日ぶりの奇跡の救出と報道された阿部寿美さんと任さんがいた石巻市門脇。この地域は旧北上川の河口に位置し、日和山という丘から石巻港までの間1㎞ほどの土地に、住宅が密集していました。そこを学区とする門脇小学校は日和山を背にして建っていました。
鉄筋の建物は1階部分がえぐりとられ、鉄骨がむき出しになっています。木造の建物は全て押し流されました。建っているように見える建物も全て本来の場所から波によって数十メートル動かされています。
門脇小学校は津波にのり打ち寄せた炎によって全焼しましたが、子ども達と教職員は日ごろから訓練しているとおり日和山の上に避難しました。そのため集団で避難した子ども達と教員は無事でした。
ただし5時間授業が終わっていた1、2年生はすでに下校していました。そのうちの7名が行方不明になっています。
街の状況から考えて、無事だった子どもの中にも家族を失った子が多くいると思われます。
3、学校直撃の災害
今回の地震と津波は、授業時間や下校の時刻に起きた学校直撃の災害です。
石巻市は小中学校71校のうち48校が避難所となっています。子ども達の死者・行方不明は石巻市内だけで合わせて675名、教職員の死者・行方不明は35名にのぼります。(3月25日時点、石巻市発表による)
津波から逃れ雪の降りしきる中、子ども達を引率して山中に避難して、共に数日過ごした教員がいます。
その中で水に濡れた服のまま、子どものためにたきぎをしていた教員が、翌朝凍死していたというのも石巻市雄勝町のこととして聞きました。
石巻市中心部の小中学校は数百人規模の避難所になっているところが多く、教職員は2~5日間ぶっ通しで、避難者の世話をし続けました。ある教員は5日後に自宅に戻ったものの、家族にはいまだ会えていないといいます。そして4月1日には県教委が人事異動を発令しようというのです。
石巻だけではありません。茨城から岩手までの500kmに及ぶ沿岸地域では、大川小ほどではないにしても、どの学校も大きな被害を受けています。
子を失った親、教職員が多数います。家族を失い孤児になった子は数えきれません。家を失い、校舎を失い、街や集落がさらわれた地域もたくさんあります。
4、被災地石巻の現状
石巻市は人口16万人で東京近郊では浦安市と同規模です。そのうち7割が被災者です。そして現在3万人をこえる方が避難所で生活しています。今回被災した街の中では仙台に次ぐ規模です。人口の多くが海沿いもしくは北上川沿いで生活しており、その多くの方が被災しました。現在の石巻市は1市6町の合併を経て成立しています。市域が広く、たとえば石巻市中心部の門脇小学校から大川小学校までは25㎞ほどあります。さらに雄勝町に行くには山を一つ越えなくてはいけません。
旧石巻市は人口が密集しており、被災者が多数です。いまだに大きな避難所には1000人近い方がおられ、数十人単位の避難所も多くあります。他方、旧雄勝町など三陸海岸に面した町は人口が少ないものの全て壊滅状態になっています。
災害発生直後あまりの被害の広がりに、行政の機能はパンクし物資の分配が追いつかない状態となりました。始めの一週間が過ぎても、どの避難所でも食料の供給が滞ったままでした。
5、東京での報道や政府発表への疑問
さて、東京や全国(あるいは世界)の報道では「被災地では略奪はなく、整然と規律よく住民は生活している」とされていましたが、実際にはどうだったか。
略奪とよぶかどうかは別としても、商品があるのにひらかない店がドアを開けられ、住民が物をもちだしたという例は多くありました。報道のように整然と落ち着いて生活しているというのは少なくとも事実のごく一面でしかありません。
この事実から伝えたいのは、被災地が無法地帯だということではありません。今回の災害による被害が今までのどんな経験でも量れないほど、広く大きい、そして行政を壊滅させたかということを知ってほしいのです。
現地にいるとき、私の中に、疑問がわきあがっていました。①「略奪が起きてもおかしくない」そんな窮状に陥っている人々がいることを東京や全国の人々は分かっているのだろうか。②「冷静で、抑制的な日本人」とは違う状況に追い込まれた人々がいることに気づいたうえで「がんばれニッポン」と言っているのだろうか。という疑問です。
普段は「冷静で、抑制的な模範国民」と言ってもよい人が、日に日に追い込まれ、結果として一週間のあいだまったく食料の配給がない生活をしていたということ、そしてその時に、東京や全国のテレビでは日に日に「がんばれニッポン」というスローガンのから叫びが増えていった時期だということです。
スローガンよりも、現実を知ることが必要だったはずです。しかし被災地の外ではその現実が直視されない、少なくとも報道と政府発表はそうではなかった。私が石巻にいる間、一番もどかしく、悔しかったのがこの点です。
他方で、そのような状況にありながらも、地元の人々は支えあって生活してきたということも事実です。食料を融通しあったり、自宅が無事な人が蓄えていた食料を出し合い避難した方を支えたりしました。そして行方不明者の捜索活動を行い、多くの遺体をあげる活動をしたのは地元の若者たちによる消防団です。今も自主的に行政の一端を担っている方々の多くは地元住民です。
しかしその支え合いの力だけでは避難所への物資の配給は十分とは言えず、2週間たった時点でも多くの方は風呂で体を流すことができていません。若者たちが毎日遺体をその手で上げても石巻の行方不明者はいまだ3000人に及ぶといわれているのです。
各地から送られた物資は決して少ないとは思いません。しかしその物資を届ける人手の方が足りないのです。被災者に対して支援に回れる人の割合が圧倒的に小さいというのが現状です。
そのような条件の中に今、教職員も子ども達も、地域の人々もいます。生活の再建、学校の再建にはどれほどの時間とパワーが必要なのかと考えると気が遠くなります。ただでさえ公務員が削減されてきたなかで、地域の力がどんどん弱まっていた中でのことなのですから。
6、東京の教職員としての私たちが何をするべきか
現地に向かってほしい。多くの人とふれあってほしい。被災の現実を看取ることだけでもいい。被災者の、あるいは教職員の話を聞くだけでもいい。これが私の正直な実感です。
この地震では生き残った人々の周りで、多くの命が奪われました。
「自分は助かったけど、すぐ後ろにいた車は波にのまれた。」
という記憶をもっている人も少なくありません。現地の人々はなじみの顔を見つけるたびに、自身の生存とともに、いなくなってしまった身近な人のことを話しています。「生き合っていることの確認」とでもいえばいいでしょうか。自分とかかわりのある人がまだまだたくさん生きているのだということに気づくことが心強いのだと思います。被災地外からのかかわりであっても、被災された人々を励まし、勇気づけることがあると思います。現地に行くというのはなかなか大変ですが、どのような形であってもかかわりをもつことが必要だと思うのです。
なにしろ生活を再建するまでには長い年月がかかります。一番大切なのは継続的に支えていけることです。無理のない形で、しかし積極的な方向に、互いに得るものがある形で取り組んでいければと思います。
突然の災害がまた私たちの学校に襲いかかることが考えられます。その時には支えてもらいたいということも考えます。
私自身は今回、クラスの子ども達がつくってくれた寄せ書きをもって、石巻市のある小学校を訪ねました。子ども達には会えませんでしたが、避難所に詰めていた教員の方に手渡しました。校内に掲示して職員の方や地域の方に紹介していただけたとのことです。
この寄せ書きが、どれほど被災した学校の子ども達や教職員を支えることになるか、分かりません。ただ、数百㎞の距離はあっても同じ時間に同じ地震を体験した子ども達から子ども達へのメッセージです。共感してもらえるところがあればいいなと思います。いたらなさを感じられるところもあるでしょうが。
それでも、教職員である私にとっても、そしてこれから長くこの社会を担っていく子ども達にとっても交流をもつことが大切です。交流を重ねるなかで「自分が支えられることは何なのか」ということがわかることが大事なのだと思います。
今はたくさんの傷ついた方々とともに、長い道のりをともに生きていく出発点をつくりたいと思います。
追記
天災には智恵をよせてのりこえていきたい。
原発事故は天災ではないです。力を寄せなくてはいけない時に、さらにもう一つの最悪の事態をひき寄せる、それがこの国の原子力です・・・・・。
原発が福島になかったら・・、原発事故の対応に回った人員と物資が福島、宮城、岩手の被災地に回されていれば・・、どれだけの命が救われていただろうか、そう考えてしまうのです。
(2011年3月29日)