(2010年3月4日葛飾区半田小学校平和集会講演より)
写真は戦災資料センターで修学旅行生に体験を伝える二瓶治代さん
はじめに
東京大空襲があったのは隅田川と荒川に挟まれたところです。B29という大きな爆撃機が300機、焼夷弾をたくさん積んで東京湾の方からやってきて隅田川を中心に猛爆撃を行いました。10日の真夜中、12時7分から2時35分の2時間半です。この3月9日はものすごい風の強い日でした。そのすごい強い風に乗って火が広がったんです。そして火がだんだん鎮火していったのが、朝の5時ころと言われています。ですから5、6時間燃えつづけたのです。
私は8歳
私は8歳でした。総武線に亀戸という駅があります、私はその近くに住んでいました。お友達と夕方まで遊んでいましたが、お母さんが「御飯だよ」というので、「みんな、また明日遊ぼうね。さようなら。」と言って別れました。だけれども、とうとうその約束は果たせませんでした。
夕飯がすんで、8時ごろ床に入りました。そしたら、夜中にサイレンが鳴りました。空襲が起こりそうだよという知らせです。私の家は5人家族で、お父さんとお母さんと中学生のお兄さんと、私とまだ学校に行ってない妹の5人です。お父さんが外を見に行きましたが、「大丈夫そうだから寝てていいよ」と言われたので私はまた床には入りました。
防空壕
それからしばらくしてです。お父さんが外から「今日はいつもと違うから起きろ」と言って家に飛び込んできました。私はパッととびおきて、いつも用意してある、着替えをして、大事なセーターや角砂糖を入れたリュックをしょって、防空頭巾をかぶって、外に出たんです。真夜中でとても寒かったです。その時東京湾に近い町のほうの空は真っ赤でした。その空の中に、真夏の入道雲を火の雲にしたようなものがもくもく、もくもくあがっていました。ちょうどその中に真っ赤に燃えた筒のようなものが、雨の様にザーザー、ザーザー音を立てて降り注いでいました。私は焼夷弾というものは聞いてはいましたけれど見たことはありませんでしたから、「あれは何だろう」と思いながら、昼間遊んだ防空壕に入ったんです。その防空壕は10人くらいしか入れません。もうお隣の家族、昼間一緒に遊んだ友達も含めて5,6人入っていましたので、うちも母と私と妹の3人だけ入りました。父は防空壕には入らず外の様子を見ていました。お兄さんは中学生でしたから勤労動員という制度が当時はありましたから、近くの工場に行っていたんです。壕の中に入ってますとね。ドン、ドンと周りの音が響いてきます。バシンバシンと何か物がさく裂する音とか、お母さんが子どもの名前を呼ぶ声とか、子どもがキャー、キャーという悲鳴とかがひびいてきて怖かったです。しばらくすると外の様子を見ていたお父さんが「みんな防空壕から出ろ。そこに入っていると蒸し焼きになるぞ。」といいました。だから私はお母さんと妹とつながって外に出たんですね。その時、先に入っていた隣のおばさんが「あんた外に出たら焼け死んじゃうよ。だからここにいな」と言って私を止めたんです。でも私はお父さんやお母さんが出ろというんでそのおばさんの手を振り切って外に出ました。おばさんの一家は壕に残りました。
火の風
外に出ると周りは先ほど防空壕に入った時とは一変していました。周りも地面も空も一面真っ赤に燃える火の海です。ごうごう、ごうごう渦を巻いて火が地面を走ってるんです。その中を人がみんな逃げていました。みんな亀戸駅のほうに逃げていました。強い北西の風に吹かれて逃げているんですね。風がものすごく強くて、それは火の風です。火の粉をたくさん飛ばしてくるんです。火の粉といっても家が燃えているので、障子、畳、柱、瓦などが燃えながら、強い風にのって飛んできます。それが逃げて行く人にどんどん当たります。みなさん想像がつきますよね。お母さんもお父さんも、背中でおんぶされてる赤ちゃんも背中で燃えてるんです。燃えている赤ちゃんをおんぶしたまま狂ったように走ってるお母さんもいるんです。逃げている子どもたちにも火の粉が当たります。子どもたちは燃えながら走っていました。また子どもはよく転びます。地面は一面の火の海です。転ぶとどうなると思いますか。生きたまんま火だるまになって、道を転がって行くんです。ギャーとものすごい悲鳴です。こうやってお話しているとその声が今も私には聞こえてきます。人は生きたまま焼き殺されていったんです。
土手の上から見たもの
私の場合ですが、きっとお父さんの判断だと思いますが、みんなが逃げていく道を、横切りまして、反対側に行きました。そこには総武線の線路があります。線路は高架線で土手の上を通っているんですね。その土手に一時避難して、自分の家が焼けていくのを見ていました。ごうごうごうごう、ものすごい音を立て、燃えていきました。その中を人は強い風に吹き飛ばされるように、逃げていきます。私は土手の上にじっと立っていたんですけど、怖いとか熱いとか家が燃えちゃうとか、人間らしい気持はどっかにふっとんでしまっていました。ただじーっと見てたのを覚えています。そうしますとね。その燃えている町に、たくさんの消防士が出ていました。一生懸命水をかけているんですけど、あまりの大火で空気中の酸素が燃えてしまうと、お水も出なくなるんですね。でも少ししか出ないホースでも消防のおじさんたちは一生懸命水をかけていました。この時代ね、「消防士は自分の持ち場を離れてはいけない」という国の命令があったと聞いています。水をかけている消防士のおじさんにも当然火がつきます。消防士はね、みんな燃えながら一生懸命ホースで水をかけていました。そしてバタバタ、バタバタ倒れていきました。
それからこの時代、車があまりないんです。かわりに馬が荷物をいっぱい運んでいました。その馬がこの炎におびえて、町中を暴れて暴走したんです。馬は逃げながらやっぱりたくさん焼き殺されていきました。その中で一頭の馬のことをよく覚えています。道路を歩いてきたその馬には馬方さんと言って馬の飼い主さんがついていました。荷車という大きな車を引いて、その上に荷物をたくさん積んでいました。炎の中を一生懸命歩いてきたんですが、私がちょうど立っている土手の真下のところで、四本の脚を突っ張らせるようにして立ち往生してしましました。もう動けなくなってしまったんです。そうして立っていたらその馬の荷物に火がつきました。荷物はいっせいに燃え上がりました。するとその荷物の火はやがて馬に燃え移りました。馬は生きてるまんまです。でも暴れないで燃えながらじっと立っていました。そしたらその火が今度は馬方さんに燃え移ったんです。馬方さんも馬を見捨てて逃げませんでした。たづなをもったままじーっと立って馬と一緒に燃え尽きてしました。
私は熱いとか、こわいという思いもどこかに吹っ飛んでしまい、じーっとその様子見ていたんですね。ただ一つ、頭をよぎったことがあります。それは、3月なのでお雛様が飾ってあったので「あー、お雛様が燃えちゃう」と思ったこと、それだけ覚えています。
父の手を放してしまって
そのうちに私の避難していた土手にも、あっちこっちに火がついて枯れ草がごうごうと燃え上がったんです。父がここを降りようといって、父と母と妹と私の4人でしっかりと手をつないで土手を降りました。今度はみんなが逃げている炎の道を駅の方に向かって風に飛ばされるようにして、走りました。そしたときに私のかぶっていた防空頭巾に火がつきました。お父さんが「防空頭巾を取れ」と言ったんですね。それで私は父から手を放してしまい、あごで縛っていた頭巾のひもをほどこうとしたんですね。その時にいきなり背中をドンと、ものすごい強い火の風に押されるようにあおられて、炎に吸い込まれるようにとばされてしまいました。そしてお父さんお母さんと離ればなれになってしまいました。炎の中を私は一生懸命逃げました。でもお父さんやお母さんと離れてしまったとか苦しいとか熱いとかいう気持ちはなくて、ただ炎の中を逃げていたように思います。
そうしているうちに真っ暗な場所に出たんです。そこの一角だけ火がありませんでした。目の前に大きな建物がありました。その建物の陰のところで、人が一人立ったまま燃えていたんです。私は思わず「消してあげなきゃ」と思いました。「火を見たら消せ、焼夷弾なんて怖くないんだ」といつもいわれていたので、ふっとそういう気持ちになったんですね。その人に近づいていきました。その火を何かで払ってあげようと思ったんです。その時、私には防空頭巾もありませんでしたし、リュックもオーバーも何もありませんでした。私は両手を出して、火を手で払おうとしてんです。そしたらその燃えてる人が片手を私に向かってあげました。そのたらその手からサーっと炎が上がりました。その炎がわたしには赤ではなく緑色に見えました。緑色の炎が風に揺れてお振袖が燃えてるみたいに見えたのを覚えています。私はさらにその人に近づきました。吸い込まれるように。そしてまた消そうと思ったときに、後ろから「あんたそんなとこにいくと死んじゃうよ」という声が聞こえました。その声にハッとして、ちょっとその場を離れたように思います。その離れた時に何かにドスンとぶつかりました。それがものすごく熱かったです。それは炎で真っ赤になった鉄の電柱でした。熱さを感じたのはそれが初めてでした。
熱さと同時にハッと我に戻った時に、お父さんもお母さんも妹も誰もいないことに気づきました。その時初めて「恐いっ」と思いました。どうしようと思った時に、いきなり私の手をがっとつかんだ人がいました。その人はわたしを炎の中グングン、グングンと引っ張って行きました。私は「お父さんなの」「お父さんなの」と叫んでいました。でも爆風で返事が聞こえませんでした。何度も「お父さんなの」と叫んでも返事は全然聞こえませんでした。
私はその一番下敷きになって
そのうち私もまだ小さかったし、どうにもならなくなってね、道の途中で気を失うように倒れて動けなくなってしまいました。そしたらその私を連れて逃げてくれた人がどうしようもないので、自分の懐に私を抱えるようにして伏せてたそうです。そうすると人がどんどん逃げてきます。みんな怖いですから。人が何人かいたり建物の影があったりすると集まってくるんですね。私の上にも大勢の人が重なるようになりました。私はその一番下敷きになってしまいました。ほとんど気を失って、時々気がつくと今度はものすごく重くて苦しくてもうつぶれると思いました。そしてとても熱かったです。その中で声が聞こえました。男の人の声で「俺たちは日本人だ」、「おれたちは日本人だ」っていう声でした。「こんなことで死ぬな。みんな生きるんだ」って言ってる声でした。また私は気を失い、また気がつくと「日本人はヤマト魂がある」という声をずっとかけてるんですね。
そういう時間をどのくらい過ごしたのかよくわからないのですけれども、夜が明け始めたころ町はもう燃えるものがなにもなくなって、火が自然に鎮火していったのです。その時に私はその下から引きずり出されました。
炎が少しづつ、まだ燃えてるんです
引きずりだされた時、私を助けてくれた人がお父さんだとわかりました。そして「お父さん」と言おうと思ったら、お父さんは「ここを動くな」と言ったかと思うと、まだ燃えっている炎の町のどこかに行ってしまいました。きっとお母さんや妹を探しに行ったのです。
動くなと言われたのでじっとそこに立っていました。あたり一面なんにもありません。まだ炎があちこちに少しずつ見えました。人がまだ燃えてるんです。ぽっぽ、ぽっぽ火があがっていました。
私は足元を見ました。そこには私の上にいっぱい折り重なるようになっていた人たちが真黒になって、墨のようになっていました。まだ燃えている人もいました。私はそうやって焼き殺されていった人たちの一番下敷きになって助かりました。死んでいった人たちに守られるようなかたちで、助かったのです。
じっと立っていたら、向こう方から父と母と妹がきました。妹は足に大きなやけどをしていたんだけど、その時はわかりませんでした。そして4人でお兄さんを探しながら家のほうに歩いて行きました。その時にみたのは町中いっぱいに広がる真っ黒の死体です。みんなごみくずみたいに転がって、歩けないんです。そういう人たちを私はよけながら歩きました。でも目をやけどしているので大勢の人につまずきました。死体を見ると多くの人が赤ちゃんを胸にしっかり抱いて離さないでそのまんま焼き殺されていました。それからお母さんらしき人に、小さな子がお母さんに寄り添うようにして、3人とか5人とか、みんな焼き殺されていました。体中やけどをしている子が死体の間をぴょんぴょん、ぴょんぴょんとび跳ねながらお母さんを探しているのも見ました。そういう人たちを見ながらも私たちは歩きました。
そしてやっと自分の家のところに来た時にどぶねずみのように、泥にまみれた兄に会いました。私たちの家族はばらばらになったけどみんな助かりました。
先ほどの防空壕に残ったお隣のご一家は真黒になって焼け死んでいました。この日は大勢の人が死んでいきました。「明日また遊ぼうね」と約束したお友達はそれっきり誰にも会えません。
自分がその立場だったら、と考えてみてください。
今日は3月10日だけのお話をしました。みなさんは戦争のない時代に生きていますけれども、世界には戦争をやっている国があります。それから戦争をやっていない国もあります。戦争をやっていないけど食べ物がなかったり、おうちがなかったり、そういう人たちも、戦争の時と同じ苦しい思いをしていると思います。みなさんも「自分がその立場だったら、どうかな」と考えていただくことができたらいいなと思います
※3月10日は東京大空襲があった日です。指導の参考に。
都平和の日事業http://www.metro.tokyo.jp/INET/BOSHU/2014/01/22o1l200.htm